宋神道さんについて
1922年11月24日、朝鮮の忠清南道論山で生まれた宋神道さんは、
1938年、中国武昌の慰安所に連れて行かれ、7年間、中国中部地域を転々としました。
戦争が終わって日本に渡ってきた宋さんは、1993年4月5日、日本政府に謝罪を求めて提訴しましたが、2003年3月、敗訴が確定しました。
2011年、東日本大震災の際、津波に自宅を流されましたが、近所の人々の助けで難を逃れ、東京に移住。
2017年12月16日、東京で永眠しました。
宋神道さんの足跡
11月24日、植民地下の朝鮮忠清南道に生まれる。
9月18日 柳条湖事件 15年戦争始まる
3月1日 「満州国」建国宣言
3月 上海事変時に「慰安所」創設
数え12歳の時、父死去。
数え16歳の時、母の決めた相手と
婚礼を挙げるが、その日のうちに逃げ出す。
大田(テジョン)で朝鮮人女性に「戦地に行って
お国のために働けば結婚しなくても独りで生きていける」とだまされ、戦地がどんなところかも、
どんな仕事をするのかも知らずに、新義州→天津→漢口を経て、11月頃 漢口から船で占領直後の武昌に到着
武昌の慰安所「世界館」で「慰安婦」を強制される
―第6師団、第9師団等が「利用」
―腕に「金子」という源氏名を入れ墨される。
―性病検査、食料配給等を軍が担当
7月7日 日中全面戦争はじまる
12月13日 「南京大虐殺・大強姦」
年末から慰安所急増
上海で軍直営「陸軍娯楽所」開設
<徐州作戦>
8月12日 <武漢攻略作戦>発動
10月26日 第11軍(第6、第9師団等)漢口入場
10月27日 武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽 完全占領
11月3日 第2軍(第3、第13師団等) 漢口入場
11月25日 漢口にて「慰安所」開設
ほぼ同時に武昌でも開設
12月15日 第2軍、戦闘序列を解かれ隷下部隊はすべて第11軍の隷下に
*以後、第11軍が武漢地区を含む揚子江流域を確保
慰安所での生活の中、日本語を覚えた。
当時の宋さんの足跡と慰安所、日本軍の状況については
・「宋神道さん本人尋問」
(裁判パンフレット「宋さんといっしょにPART1」参照)
・「藤原彰氏証人尋問調書」、「藤原彰氏鑑定意見書」「吉見義明氏鑑定意見書」
(裁判パンフレット「宋さんといっしょにPART2」参照)
9月23日 「中支那派遣軍」解消、
「支那派遣軍」創設
総司令部=南京に
4月28日 <宜昌作戦>
6月12日 宜昌占領、第11軍司令部、応山に
この頃、妊娠して漢口の慰安所に移り、出産。
慰安所では育てられないため、他人に預ける。
出産後1、2ヶ月で岳州の慰安所へ。
―岳州を拠点にして長安、応山、
蒲圻等を「部隊付き」として転々とする
岳州は第11軍司令部、 長安、応山、蒲圻は
第11軍作戦区域内の重要拠点移動は軍人の
運転する軍のトラックで「稼ぎ」は
「国防献金」になっていると言われた
<第1次長沙作戦>
4月28日 第11軍司令部、岳州に
9月28日 長沙完全占領
12月8日 アジア太平洋戦争はじまる
<第2次長沙作戦>
2月中旬~3月中旬 <江北殲滅作戦>
4月~6月 <江南殲滅作戦>
3月 <大陸打通作戦>
4月 <湘桂作戦>第11軍出動
咸寧(カンネイ)の慰安所に移って2ヶ月ほどした頃日本の敗戦を知る。
峯部隊のI軍曹から「結婚して日本に一緒に帰ろう」と誘われ、これに従う。峯部隊(独立混成第17旅団)は江南地区(岳州から咸寧一帯)の警備を担当、
咸寧には峯部隊の司令部があった。
8月15日 日本敗戦、朝鮮解放
旧生活保護法施行 *国籍要件無し
春、引揚船で博多港に到着。
I軍曹に捨てられ、見知らぬ国で途方に暮れるが、
後に在日同胞河在銀さんと知り合う。
以後、宮城県女川町で河在銀さんと同居。
魚の加工工場、道路工事、水商売などの仕事で
生計を立てた。
外国人登録令公布、朝鮮半島出身者に登録義務
生活保護法(現行)施行
*国籍要件有り
4月28日 サンフランシスコ講和条約発効。
在日朝鮮人の日本国籍一斉喪失。
厚生省社会局長「生活に困窮する外国人に対する
生活保護の措置について」
*「治安対策」として「当分の間」の「準用」を通達
引揚者給付金等支給法
*国籍要件有り
4月 国民年金法施行
居住要件;日本国内に居住していること
国籍要件;日本国籍保持者のみ加入できる
「日韓条約」「日本請求権及び経済協力協定」「日韓法的地位協定」締結
「日韓条約」「日本請求権及び経済協力協定」「日韓法的地位協定」締結
11月 生活保護受給開始
戦後、在日朝鮮人として日本で生活した
宋神道さんには公的な救済措置を受けられる
機会はなく、経済的に困窮した。
2月17日 河在銀さん死去
(77歳、1905年生まれ)
1月1日難民条約発効
→国民年金の国籍要件廃止
6月 日本・海部内閣「従軍慰安婦は業者が連れ歩いたもので日本政府は関与していない」と表明。
3月〜旧ユーゴスラビアで内戦が勃発、次第に深刻化。
「民族浄化」と称する組織的性暴力を含む「人道に対する罪」に国際的な注目が集まるようになる。
韓国・盧泰愚大統領訪日に際し、韓国の女性団体が「慰安婦」問題で声明書発表
8月 金学順さんが「従軍慰安婦だった」と証言。
12月 金学順さんら元「慰安婦」を含む韓国在住の元軍人・軍属が補償を求めて東京地裁に提訴。
「慰安婦110番」に宋さんの情報がもたらされる
1月 吉見義明氏により慰安所制度の軍関与を示す文書が発表される。「慰安婦110番」設置。
7月 日本政府、慰安婦制度の国の関与を認める調査結果を発表(加藤談話)
4月5日 東京地裁に提訴
<請求の趣旨>
「謝罪文交付」
「国会における公式謝罪」
金員請求はせず。←(裁判パンフレット「宋さんといっしょにPART1」参照)
1月23日「在日の慰安婦裁判を支える会」発足
7月ファン・ボーベン国連最終報告書(注1
6月 金学順さんの本人尋問を傍聴
1月27日 第6回口頭弁論
裁判所からの「日本の法律の規定で謝罪だけを求めるものはない」との指摘を受け、金員請求を行った。
7月 ラディカ・クマラスワミ国連人権委特別報告官の聞き取り調査を受ける。
1月 ラディカ・クマラスワミ国連報告書(注2
12月 多田謡子 反権力人権賞を受賞
6月 マクドゥーガル国連報告書(注3
2月 裁判パンフレット「宋さんといっしょに」PART2発行。歴史的事実と現在に続く被害を訴えた。
3月 裁判パンフレット「宋さんといっしょに」PART3発行。国際法の見地から人権回復の重要性を訴えた。
10月1日 東京地裁判決(請求棄却)
11月30日 東京高裁判決(請求棄却)
国際法違反があったことは一部認定したが、
宋さん個人には賠償請求権がないとした。
・これらの報告書(「マクドゥーガル報告書」「クマラスワミ報告書」)から、従軍慰安婦の実態については、奴隷状態類似の重大な人権侵害行為があったものと推認することができる。
・控訴人ら従軍慰安婦の設置、運営については、当時の日本を拘束した強制労働条約、醜業条約に対する違反行為もあったと認められ、それぞれ条約違反による国際法上の国家責任が発生していると認められる。日本国は、国際的不法行為をした慰安所経営者、それに加担していたと見られる旧日本軍関係者に対する処罰や是正措置、被害者救済措置等の処分をする義務が生ずるが・・・
「東京高裁判決文」(裁判パンフレット
「宋さんといっしょにPART4」)
3月28日 最高裁上告棄却、敗訴確定
宋さんの記録映画製作開始
8月25日 記録映画「オレの心は負けてない」
初上映 中野ゼロホール550人
1月24日 米寿祝い
3月11日 東日本大震災
震災後の女川を再訪
11月24日 卒寿祝い 90歳
外出が減り、訪問介護を受ける
2013
2012
2011
2010
2007
2005
2003
2000
1999
1998
1997
1995
1994
1993
1992
1991
1990
1982
1971
1967
1965
1961
1957
1954
1952
1950
1947
1946
1944
1943
1945
1941
1942
1940
1939
1938
1937
1932
1931
1996
1933
1922
「わかんねえ、わかんねえ。日本語もわかんねえし、
座れといってもバカといってもわかんないし。なるべく頭をこうやってさげてばかりいた」
「死んでもね、お互いに理屈的に考えれば、おなごだって人間だべや。動物じゃない。軍人と一緒に死んだなら、朝鮮に送るとか、仏になっても日本に戻るというのならいいさ。皆死ねば別れて帰っていくべ。朝鮮のおなごはそうじゃないの。死ねばその辺の墓もない辻に穴掘って埋めてくるんだけや。」
「一六とき連れていかれて、散々慰安婦にさせられた人間、あと年とって日本さ来てさ、保護もらって食ってるだの何だの、かんだのと言われてみろ。死んでも死に切れないの当たり前じゃないの。慰安婦にされたのも情けないし。何で人の国の戦争さ巻き込まれて慰安婦にされてこんなざまになったのかということを考えると死んでも死に切れないから、裁判さ訴えてしゃべったんだ。しゃべんなけりゃ、温かいもの食ってるんだかぬるいもの食ってるんだか分からないべっちゃ。」
「昔の子どもは国のため、ただメチャクチャやらされたけど、今の子どもだって、戦争始まったら戦争の規則どおり、行かなきゃなんめえ。戦争には戦争の規則ってもんがあるんだよ。人殺したり、人の財産奪ったり、そのために戦争するんじゃないかなあ。結局、戦争するよとなったらば、国のため行かなきゃなんないべや。親のためじゃない、何のためじゃない、国のためなんだよ。国のために命ぶんなげに行くんだ。日本の兵隊も辛くて、辛くて、自分で死んだ人もいるの。そういうのいっぱい見てきたんだから。戦争負けたからいいようなものの、勝ったら大変なことになってたよ。」
「皆さん、本当に私は裁判負けても心は負けてないから。宮城県さ帰っても、大船さ乗ったつもりで皆さんの顔見て、ちゃんと生きているうちはなんとか生きますから、皆さん、どうぞよろしくお願いします。ありがとう!」
「人の心の一寸先は闇だから。人の心が信じられずに生きてきたんだよねえ。騙されてばかりいたからさあ。でも、裁判かけて、体験を話してから、ちっとは安心した。オレも少しは人間らしくなったよ。すっかりあか抜けたババアになっちまった。」
「今一番幸せだ。支える会のおなごたちが守って
くれるから、幸せなもんだ。今繰り返ししゃぺったって元のようになるわけじゃないし、どうにもならねえ。だけど、分かってくれる人は分かってくれるからさ。」
6月2日 アジア連帯会議 院内集会参加
2014
8月 リハビリ病院入院
老人保健センター転所後、再度入院
10月から年末まで入院 病院で93歳の誕生日
2015
1月4日 特別養護老人ホーム入居
入居後、脳梗塞で3度入退院
2016
12月16日午後2時 逝去 95歳
2017
作成:在日の慰安婦裁判を支える会(梁澄子)に加筆
正式名称
注1)ファン・ボーベン国連最終報告書「人権と基本的自由の重大な侵害を受けた被害者の原状回復、賠償及び更生を求める権利についての研究」
注2)ラディカ・クマラスワミ国連報告書「人権委員会決議1994/45にもとづく「女性への暴録に関する特別報告者」による戦時の軍事的性奴隷制問題に関する報告書」
注3)マクドゥーガル国連報告書「武力紛争下の組織的強かん、性奴隷制および奴隷制類似慣行に関する最終報告書」