村上(修士1年)
若者プロジェクトでは、2021年7月25日と8月7日の二回に分けて山口明子さんから聞き取りをしました。初回の聞き取りでは、満州と四国の松山で過ごした幼少期から説き起こして、戦後に東京の学校を卒業し、キリスト教協議会などに勤めつつキーセン観光反対運動や「慰安婦」問題に関わっていく経緯などを一気に語ってくださいました。第二回目の聞き取りでは、第一回目の内容をさらに詳細に語っていただくとともに、ハルモニたちとの交流や台湾の「慰安婦」問題に関わっていく背景などもお聞きすることができました。
私にとって特に印象深かったのは、山口さんが戦時下の経験をどのように受け止めているかということです。山口さんは満州に住んでいた時期のことをよく覚えているそうです。官舎のボイラー室で働く北朝鮮からきた季節労働者が、お土産にりんごをくれたこと。当時満州でペストが流行していたため、母親と一緒に予防接種会場へ行ったところ、中国人の女性が泣きながら接種を拒否していたこと。当時の生活の記憶を今でもはっきりと思い出しているようでした。
このような戦時下の経験を背景に活動されてきたということは、のちの世代が活動することと少し位相が異なるのだと山口さんは言います。例えば、「慰安婦」問題を考える際に、山口さんには同時代人として、他人事とは思えないそうです。「慰安婦」とされた女性たちは、実際に山口さんと同じ道を通り、駅を使っていた人たちであり、雑踏ですれ違っていたかもしれない人々でもあるということ。社会的な状況が少し異なれば自らも同じように「慰安婦」にされていたかもしれないという感覚。確かに、運動史において戦時下の記憶をもつ世代と後の世代の懸隔には意識を向ける必要があると思わされました。また1990年代後半に生まれた自分が一体何を背景に語るのか、あるいは語らないのか、考えてみたいです。
ところで、個人的なことを書いてしまうようですが、今回の聞き取りで思いがけない偶然もありました。山口さんは、戦後に松山で私の祖母と同じ時期、同じ中学校に通っていたのです。残念ながらお互いに面識はなかったようですが、山口さんも「世間は狭いわねえ」と嬉しそうな顔をされていました。祖母は学校を卒業したあと、専業主婦となって転勤族の祖父とともに人生を過ごし、現在は横浜で暮らしています。祖母と山口さんの人生はその後交わることなくきたわけですが、コロナ禍のなか、孫の自分が再び山口さんと同じ時間と場所を共有することができたことに不思議な思いがしました。
最後になりますが、山口さん、長時間にわたって貴重なお話しをお聞かせいただき、ありがとうございました。山口さんが戦後どのような課題を引き受けてご活動されてきたのか、そのことをお聞きできたのは、私にとって一つの座標軸となる経験でした。またお会いしてお話しするのを楽しみにしております!
Comments